私は、東大阪に住み、ここで働いて、はや50年以上経った。
永い様で短い人生の中、私自身まだまだ中途半端でどこにも、何に対しても辿り着いてる気がしない。
この古今東西も1年ぶりに筆をとった。
その気になったのも人生の大半を東大阪で過ごしてきたのに、案外東大阪の事を何も知らない事に気がついたからだ。
その昔、東大阪の辺りは河内と呼ばれていた。
しかし、私自身はその歴史や文化を意外と身近で目にする事が少なかった。
私の知っていることとしては、河内木綿、鉄線•伸線、河内鋳物等の技術を経て、そこから発展し、東大阪がモノ作りの町になったくらいだろう。
しかし先日、東大阪市経済部の部長との懇談で、東大阪のモノづくりの町の起源は物部氏だと聞かされ、思わず絶句した。
歴史といえば、江戸時代以降の事しか知らなかった私にとって、大変衝撃だった。
いきなり神世の時代に遡るとは、想像すらしたこともなかった。
物部氏といえば、日本の初代天皇とされる神武天皇から語らねばならない。
神話や伝説上の人だが、若かりし頃は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といわれていた。
その神武天皇が九州から東征して、当時の孔舎衞(くさか)坂を登り(今の東大阪市日下町)、大和に入ろうとした。
しかし、地元の豪族長髄彦(ながすねひこ)によって撃退され、神武天皇は熊野へ落ち延び再び、大和に入った。
しかしこの辺り一帯には、神武天皇より早く天の磐船で今の東大阪に降臨された神様(天孫降臨)がおられた。
饒速日命(にぎはやひのみこと)といわれ、今でもお祀りされている。
その神社は磐船神社といい、ひっそりと交野市にある。そして有名な石切にある石切剣箭(いしきりつるぎや)神社にもお祀りされている。
豪族長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕えていたが、命(ミコト)が亡くなってから、神武天皇に仕え、その子孫が物部氏といわれている。
しかし、一族はものづくりに携わり、河内鋳物を天皇に献上していたらしい。大和の仏像や奈良の大仏等は、河内で製作し、その技術者は、永く河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれ、尊敬されていた。
私は、初めは半信半疑だったが、今の東大阪のモノづくりの基礎ができたのは、どうやらこの時代の様だと確信した。
また、様々な道具、工具、木製品などの品物がつくられていたようだ。
神話の話はさておき、少し調べただけで歴史の謎が多くあり過ぎて、はっきりとしたことは分からない。
なぜなら、史実というものは、時代の流れで書き換えられ、忘れ去られるケースが多い。
戦国時代、戦乱のさなかでは、特にそうであった様だ。これから色々調べてみたいと思った。
その後調べ始めて、私が最初に気になったのは、東大阪には神社がやたら多いことだ。
いや、多過ぎる様に思う。
これも何かを物語っているのだろうか?お祀りされている神様の種類が他の地域に比べて非常に多い。
そして古墳や遺跡も多い。
出雲地域で膨大な量の銅鐸が出土したが、そっくりの鋳型が東大阪で36年前に発掘された。
東大阪の鋳物メーカーである上田合金の上田社長が、東大阪の「モノづくり力」を知って、銅鐸の復元に挑戦し、見事に成功したのは有名な話である。
しかしその上田社長も、当初はかなり苦労をされたようだ。
まず、銅鐸の厚みが薄く均一に作れない。2000年も昔にどうしてこれだけの物が作れたのか。
今の技術を駆使しても再現出来なかったらしい。
たったこれだけのことではあるが、かなり試行錯誤を繰り返し、何度も失敗したそうだ。
そして遂に完成した時の、上田社長の満足げなお顔は、今でも脳裏から離れない。
その上田社長は、平成26年1月に急逝された。
私は、友人であっただけにとても残念だ。
しかし社員の方達有志が、伝統と技術を引き継いだ。東大阪のモノづくり魂は、生き残ったのだ。
これから彼ら若い衆の力に、期待したい。
そして私もこれからシリーズで、東大阪の歴史を紐解いてみたいと思う。
何が発掘されるか楽しみだ。
さて、私をこうまで奮い立たせる理由がもう一つある。それは、私にとって一番の守り神とも言える、物部神社の存在である。
私の生まれ育った故郷は、島根県の石見地方にある大田市である。
そのお膝元に物部氏の物部神社がある。
何も知らず子供の頃よく遊びに行ったが、この物部神社は、石見地方の一ノ宮である。
そしてもう一つ大事な神社がある。地鎮祭や上棟式、その他のお祓いでお世話になっている、
東大阪の枚岡神社。この枚岡神社は、河内地方の一ノ宮だ。
今、私がこうして大過なく、45年もモノづくりに従事しているのも、物部神社、枚岡神社という、大きな二つの神社に見守られているからではないかと思っている。
偶然ではあるが、私の生まれ育った町には物部神社があり、そして私はその物部氏のお膝元である東大阪の地で、モノづくりの仕事をしている。
このつながりには何か、不思議なご縁を感じずにはいられない。
その不思議なご縁に想いを馳せるとき、どうしてもこの東大阪の地の歴史を知りたいと思ったのである。
以後、私のこの古今東西というブログでは、この東大阪の歴史について、考察したことを綴ってみたいと思う。