ロダン21はこの16年間、様々な成功と失敗を重ねながら、実践的なモノ作り異業種交流グループとして活動してきました。
中小企業の異業種連携は、時代のニーズに細かに対応できる機動力、総合力が強みであると実感しています。
しかし、その企業を動かし、技術を磨き上げているのは「人」です。
品川隆幸自らの体験談を交えながら、これからのものづくり・人づくり、町づくり、異業種交流について熱く語りたいと思います。
2017年
10月
24日
火
メンバーのうちの、何人かの人たちが先立たれた。冥福を祈るとともに、ロダン21の軌跡を報告したいと思う。
ロダン21は、東大阪市が平成9年11月に公募したグループの一つだった。バブル景気がはじけて5年にもなり、不況の真っ只中。
この時、異業種集団として結成された。
この集団は、同業種では到達できない発想を持ち寄って製品開発を行い、事業化することを目的とした。
そしてさらにその事業を継続させ、産業へと発展させて欲しいというのが、東大阪市の狙いだった。
ロダン21の立ち上げは、21社の中小企業から始まった。
その21社で21世紀を考える会として結成された。
さらに集まった企業の中からモノづくりグループを形成した。
これがロダン21の土台となった。
中小企業の、商品開発の難しさ
最初の1年間は、メンバー企業の工場見学をして回った。
そしてある結論に達した。
それは、中小企業の自社開発の商品は、自己満足で終わっているケースが多く、売れる商品となるにはあまりにも詰めが甘い。
その詰めの甘さは中小企業たる所以かもしれない。
そして、それらの自己満足製品をいくら倉庫に詰め込んだままにしておいても、それらは不良在庫でしかない。
我々はそんな在庫を皮肉を込めて「罪子」と呼んだ。このままでは製品開発は夢のままである。
2017年
8月
08日
火
私は、東大阪に住み、ここで働いて、はや50年以上経った。
永い様で短い人生の中、私自身まだまだ中途半端でどこにも、何に対しても辿り着いてる気がしない。
この古今東西も1年ぶりに筆をとった。
その気になったのも人生の大半を東大阪で過ごしてきたのに、案外東大阪の事を何も知らない事に気がついたからだ。
その昔、東大阪の辺りは河内と呼ばれていた。
しかし、私自身はその歴史や文化を意外と身近で目にする事が少なかった。
私の知っていることとしては、河内木綿、鉄線•伸線、河内鋳物等の技術を経て、そこから発展し、東大阪がモノ作りの町になったくらいだろう。
しかし先日、東大阪市経済部の部長との懇談で、東大阪のモノづくりの町の起源は物部氏だと聞かされ、思わず絶句した。
歴史といえば、江戸時代以降の事しか知らなかった私にとって、大変衝撃だった。
いきなり神世の時代に遡るとは、想像すらしたこともなかった。
2016年
7月
19日
火
(株)シナガワ創業44年
我が(株)シナガワは、今年で創業以来44年間。よくもまぁ、潰れずに続いてきたものだと思う。かつて一念発起して独立を目指したのは昭和47年2月。当時私は30歳で創業した。しかし、起業して一年であの第一次オイルショックがやって来た。
いきなりやって来たのは原材料の高騰だった。特にゴムは石油製品であるから、とんでもない材料不足と高騰に見舞われた。第一次オイルショックは中東戦争がきっかけだった。第二次オイルショックは産油国( OPEC)が談合して石油高騰を招いた。
2016年
3月
07日
月
3度目の生と死の間
2014年11月に新本社工場が完成するまでは、寝る間を惜しんで悪戦苦闘の連続だった。
息をつく間も無く次々と仕事をこなし、ようやく念願の新工場も完成した。
やれやれと思い、ホッとした瞬間に気が抜けたのか、風邪をひいてしまった。
もう12月の本格的な寒さが到来していたので、その寒さが祟ったのか、完全にこじらせてしまった。
しかしだからと言って休むこともできず、体調の悪さを押して仕事に集中した。
そんな状態で年末まではなんとかやり過ごしはしたが、正月休みにはすっかり寝正月となってしまった。
咳が止まらなくなっていたので夜も眠れず、辛い状態が続いた。
元来医者嫌いの私であるが、ついにかかりつけ医の元へ走り、助けを求めた。5年前(2009年)に免疫不全で死にかけたことがあったが、医者にかかるのはそれ以来である。
私はどちらかというと自分の体を過信する傾向にある。
昔は無節操に食っていたが、今では日々の食事には気を使っている。
睡眠も十分にとっている。おかげで風邪をひいてもこじらすことなく治っていた。
しかし今回の風邪は一月経っても快方に向かわず、とうとう病院へ駆け込んだのが2月に入ってのことだった。
まずは病院でレントゲンを撮った。
診断した医師はそれを見て驚いた。
「まずは近くの総合病院へ紹介状を書きますので、すぐにそちらで見てもらってください。」と言うではないか。
とにかく、紹介してもらった病院へ直行することになった。
そして一刻の猶予もなく精密検査を受けるようにと伝えられた。
行った先の総合病院での検査によると、私の症状は風邪から肺炎を併発し、かなり重症とのことだった。
そして注射と点滴を打たれ、2~3日で症状は改善し、咳も止まった。
それまでひどい咳で夜も眠れなかったのが嘘のように解消された。
この時処方された薬の力には驚いた。
医学の進歩はすごいものだと実感した。
しかしこのとき行った血液検査で、腎臓の数値が悪いということが指摘された。
肺炎の症状は良くなったものの、腎臓がかなり弱っているとのこと。
風邪や肺炎によって、そんなに腎臓が悪くなるものだろうか?
素人の私にはよく分からなかったが、医師は直ちに人工透析が必要だと言った。
その理由は、腎臓が弱ることによってすでに全身に尿毒が回っており、尿毒症の一歩手前の状態とのことだった。
2015年
7月
28日
火
新しい仕事を作り出す工場として
まずは、どんなスペースが必要なのか、希望を書き出した。
工場内の各セクション毎の広さを検討。そこから階段の位置を決め、入口の位置も決めた。
次に営業と総務との連携を考えてレイアウトを決めた。
照明は全てLEDにし、配置を考えた。
床はOAフロアにし、各セクション毎の壁はパーティションで区切る。
そして、これまでの前工場では無かった多目的ホールと応接室、
会議室を作る。
トイレやロッカー、倉庫の位置も決め、駐車場と駐輪場のレイアウトも決めた。
また、考えるのは室内だけではない。
通常弊社ぐらいの規模の建物なら消防用の消火水槽を設置しなくてはならない。
しかし弊社は化学物質が多く、一旦引火したら水では消火できないため、消火水槽の代わりに化学消火器を設置することにした。
それ以外にも、雨水を貯めて消火用水と散水に使えるような雨水槽を設置し、前面駐車場の天井上を緑化しようと計画。
こんな希望を書き出し、図面化してもらった。
しかし、これでもまだ何かが物足りない。
せっかく新工場を建築するのだ。
今の仕事をこなす環境だけでなく、これからの新しい仕事を作り出すスペースも作るべきだと考えた。
そのためには当初の2階建から3階建てに変更し、さらにスペースを広げた。
2015年
7月
20日
月
大きな目標
この「品川隆幸の古今東西」も2014年の8月で一区切りしていた。
あれからもう1年も経っている。その間私の方は、新年度になって、本業の(株)シナガワの新しい目標を、社内全体で作成していた。
その中で、予てからの懸案事項であった新工場の建設を、一番大きな目標として掲げた。
これまで操業していた本社工場は、2014年迄30年間、増改築を繰り返しながら稼働していた。
しかし長い年月の間に、機械が溢れかえり、人や物が移動する際に危険な状態になってしまった。
これは(株)シナガワの仕事が発展した結果であるので、ある意味喜ばしいことではあるが、このまま放置しておくわけにはいかない。
何か事故が起こってからでは遅い。
しかし、私は新工場の建築は、次の後継者の仕事と決めていた。
なぜなら、次の世代がどんな仕事をしたいかは、彼らの自由に任せたい。したがって、新工場はそんな新しい仕事に合わせて作るべきだと思っていたからだ。
2014年
8月
19日
火
最近いつも腹八分を心がけ、たまには断食もする自分ではあるが、なぜか回転寿司の店に入ると自制が効かなくなる。
まず店に入った途端に目の前の新鮮なネタの寿司に目を奪われる。
そして「さぁ、食べてみろ」、「どんどん喰え」と言わんばかりに次から次へと流れてくる皿を見ていると、どれもが旨そうに見えてくるから始末が悪い。
元来好き嫌いが無い性分なので、あれもこれも色々たくさんの種類の寿司を食ってみたくなる。
そしてさらに具合の悪い事に、最初の一皿を食べたとたんに目の色が変わり、人格も代わってしまう。
もちろん、本当に人格が変わるわけではないのだが、我を忘れた状態とはこのような状態の事を言うのだろう。
自分でも、今頭の中で何か別のスイッチが入ったなと自覚はするものの、一旦そのスイッチが入ってしまうと、目の前の誘惑にもう歯止めが利かなくなり、猛烈な勢いで寿司を喰らってしまう。
2014年
5月
27日
火
書いて、考える。
また、考えて、書く。
書いたことは忘れないし、書かなければすべて忘れてしまう。
そして、書いたことを何度でも読み返すことで、より記憶の中に深く定着されていく。
これは何かを考える際のごく自然な方法だと思うが、実は私自身はそのことを知らず、長らく苦しんだ。
書かずにいたことで多くを失い、チャンスを逃してきた。
そしてとても不効率な仕事をしてきたものだと思う。
それ故に物覚えも悪かった。
母親からは「お前は頭が悪いから、覚えたいことはとにかく書きなさい。」と言われてきた。
しかし今は、書くから行動でき、書くからチャンスを引き寄せることができるとはっきり断言できる。
まさに、私は書くことで人生が奇跡的に変化するという体験をしてきたからだ。
そんな私は、人から「メモ魔」と言われるようになった。
今日は、私の書きまくったことによる変化をお伝えしたいと思う。
2014年
4月
22日
火
以前、東大阪商工会議所主催の26年間継続した展示会の話について書いた。
今回は、私自身のことについて触れてみたい。
私が起業したのは23歳の時であった。
当時営業成績が社内でトップだったのをいいことに、さっさと独立してしまえばうんと儲かると思った。
今思えば若気の至りだが、私の未熟さゆえ、独立開業はわずか一年余りで廃業へと追い込まれてしまった。
この失敗談はとても手痛いエピソードに溢れているので、また別の機会に書きたいと思う。
さて、自らの失敗でわずか1年で事業をたたむこととなった私は、「継続は力なり」という言葉の意味を深く噛み締めていた。
そしてこの言葉を念仏のように唱えながら、どうすれば事業を継続させ、企業として永続的にやっていけるのか、そればかりを考えていた。
そして寝る間を惜しんで働き、ようやく30歳のときに二度目の独立を果たした。
■どうすれば事業を継続していけるのか?
今こうして当時のことを思い出してみると、我ながら滑稽に思える。
なぜなら、当時の私は勤めていた会社の社長の言うことを聞かず、自分が良かれと思ったことは我を押し通した。
当然摩擦も軋轢もあった。
そんな私はサラリーマン劣等生だったので、小さい山であっても自ら山を築いてお山の大将になるしかなかったのだ。
そしてようやく果たした二度目の独立では、なんとか事業を継続させようと躍起になった。
2014年
1月
08日
水
地に落ちた日本のモラル
日本のモラルが地に落ちていったのはいつ頃からだったか。
恐らく、第二次世界大戦以来、戦後からだったろう。
日本は経済発展を遂げたが、その反面拝金主義が蔓延し、日本人の多くがよりお金を求めて都会へと移動した。
その時期に工場が都市部に集中的に建てられ、日夜せっせとモノ作りに明け暮れた。
そしてその結果、価格競争は激化し、そこに働く従業員の多くは没個性化して単なる労働力となってしまった。
しかし、振り返ってみると戦前の日本はどうであったろうか?
私自身は戦中生まれであるが、物心ついた頃には物資に恵まれず、常に腹を空かせていた記憶がある。
そんな戦後の混乱期の中で、子ども時代を過ごしてきた。
しかし思えば貧しくはあるが、明るく楽しい思い出はたくさんあった。
以下に、私の子ども時代にはあったが、今は希薄になったと感じる事柄を挙げてみた。